取引所を経由しないで売り手と買い手が直接取引することをいいます。 価格の提示や成立は、両者の間で行われ、1対1の関係で通貨、数量、価格を決め、売買が成立します。 不動産投資は地方官止まりの官僚で、王安石の家は家族が多く、豊かでなかった。1042年(慶暦2年)、22歳の時に4位で進士となる。、その後は地方官を歴任する。王安石程の人物であれば、科挙合格後はすぐに中央へ入って出世街道を進むのが普通だったが、王安石は家族達を養うためにとりあえずの実入りが良い地方官のほうを選んだのである。中央は実入りこそ少なかったが、皇帝・大官などの権力に近づくことが出来るので上手くすれば大きく儲ける事が出来た。この地方官歴任時代の経験が後の王安石の政治に大きく影響を与えたであろう事は想像に難くない。 1058年(嘉祐3年)、王安石は政治改革を訴える上奏文を出して、大きく注目された。こう言った上奏文の事を当時一般的に「万言書」と呼んでいたが、これ以降はほとんど王安石の文章の固有名詞と化した。それだけこの文章が素晴らしかったのであり、中央でも王安石を賞賛する声は高まっていた。後に王安石と激しい論戦を繰り広げる事になる司馬光らもこの時期には王安石を賞賛する声を送っていた。この声を受けて1067年(熙寧2年)、神宗に一地方官から皇帝の側近たる幹林学士に抜擢され、更に1069年には副宰相となり、政治改革にあたることになる。 ワラントは若手の官僚を集めて制置三司条例司と言う組織を作り、改革を推し進めた。1070年(熙寧5年)には主席宰相となり、本格的に改革を始める。新法の具体的な内容に関しては新法・旧法の争いを参照のこと。 王安石の新法の特徴は大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げると言う所にある。 これらの政策は大商人・大地主たちの激しい反発を受ける。士大夫達の多くはこの階層の出身者であったので、政界でも多くの反対者が出た。反対派の事は新法に対して旧法派と呼ばれ、この代表的存在が司馬光である。 まず1074年(熙寧7年)に河北で大干ばつが起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」と上奏され、これに乗った皇太后・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へと左遷された。新法派には王安石以外には人材を欠いており、王安石の後を継いで新法を推し進めていた呂恵卿などは権力欲が強く、新法派内部での分裂を招いた。翌年に王安石は復職するが、息子の死もあり王安石の気力は尽きて1076年(熙寧9年)に辞職し、翌年に致仕(引退)して隠棲した。 くりっく365に神宗が死去し、翌年には王安石も死去する。神宗が死ぬと新法に大反対であった皇太后により司馬光が宰相となり、一気に新法を廃止するが、間もなく司馬光も死去する。王安石・司馬光の両巨頭亡き後の新法と旧法の争いは醜い党争に堕し、どちらかの派閥が勝利する毎に法律も一新されることが繰り返され、大きな政治混乱を生むことになる。この政治混乱が北宋滅亡の大きな原因とされる。 南宋以降では王安石は北宋滅亡の原因などと言われるようになり、清末期までその悪評は続いた。戊戌変法に参加した梁啓超などの論文により一変して再評価されるようになり、現在の中国では概ね高い評価がある。ただしこのような評価には時の政府の意向が見え隠れする事を忘れてはならない。 外為は王安石死後に新法派の代表となり、『水滸伝』の悪役として名高い蔡京の負う所が大きい。また王安石を民衆の代表者として再評価することもおかしい。彼はあくまで国家のために尽力した人物である。これらの余分な部分を廃して王安石の評価に当たる必要がある。 西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができる。この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。その中、拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。 宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット語系のタングート語を表記するための独自の文字である西夏文字を制定した。 即位の翌年からは、長年の宿敵である青唐のチベット系勢力を攻めて決定的な打撃を与え、さらに1036年には宋の支配下であった、河西地方西部の粛州・瓜州・沙州に兵を進めて制圧した。またチベット系をさらに牽制するため、蘭州近郊へ兵を送った。そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。 外為、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。この軍事対立は1044年の和議成立まで続いた。宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に、西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。しかし同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。 李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である沒蔵氏による摂政が行われた。この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。 1063年、吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属した。皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。 1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなった。 李乾順の死後は息子の李仁孝が即位した。この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生した。これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努めた。 李仁孝の死後は息子の李純祐が即位したが、この時期になると政治腐敗が進み、国勢は凋落の一途を辿っていた。その状況下の1206年、親族の李安全が帝位を簒奪し李純祐を殺害、それまで金に依存した外交政策を見直し、当時強大な勢力を誇ったモンゴル族に依存する政策を採用した。 李安全は金に対し十余年に及ぶ軍事行動を発動した。この軍事行動は金のみならず西夏の国力を疲弊させるものであり、また飢饉などで貧困が続いていた民衆の離反を招き、また政治腐敗のみならず、皇帝自らが酒色に溺れ朝政を省みない状況で国内は一層不安定なものとなっていた。またモンゴルに依拠した外交政策も、西夏の安全を保障するものでなく、1205年にはモンゴルは西夏侵攻を開始、1209年までに3次に亘る西夏出兵ですでに国力は限界に達した。 1211年、西夏で宮廷クーデターが発生、李遵?が帝位を簒奪した。しかし中興に影響を与えるものでなく、西夏の凋落は下降線の一途を辿った。1216年、西夏はチンギス・ハーンの出兵要請を拒否する。その行為はモンゴル側の怒りを招き、1217年に第4次西夏遠征が行われるに至った。1223年、李遵?は自らが亡国の君主になることを避けるため、太子の李徳旺に譲位した。 西夏は李安全及び李遵?で滅亡寸前の国力となっており、李徳旺の登場で復興できる状態ではなかった。李徳旺はモンゴルに対抗するため、チンギスが西征した機会を狙ってモンゴルを攻撃しようとしたが、事前に情報がモンゴル側に漏れ、1224年にモンゴル軍により都銀川が包囲されるとモンゴル軍に投降、人質を送ることで滅亡することはわずかに免れることができた。1226年、李徳旺が病死し、李?が皇帝に推挙されたが、翌年李?はモンゴルに投降、その後李?は毒殺され西夏は名実共に滅亡した。